音楽ってなんだろうか

曽我部氏がDiary(SOKABE'S DIARY)にて、「音楽なんでも好きです、なんて人はちょっと信用し難い。」と発言してる。うーん、そんなもんなのかな。確かに、全ての人間に好かれる音楽を作らなきゃいけないわけじゃない。

小西康陽氏はかつてぼくに「人間が100人いたら、50人はきみの音楽のこと好きだし、50人はきみの音楽が嫌いだ」というようなことをおっしゃった。なかなかそのことを心からは納得できずにいるぼくであるが、いつも肝に銘じて生き続けたい。だからできるだけおもしろおかしく、「好きだ」「嫌いだ」言いあおうじゃないの。

でも、嫌いとかそういうのを前提とするのってよく分からなかったりする。自分の好みと他人の好みは違う。それはそうだ。拘りや執着や趣味や趣向が全ての人間にはある。誰もが違う。一人として同じではない。でも、それを受け入れても余りあるほど音楽には大きな力があると信じたいのだけれど、その思いは間違いなのだろうか。


今の音楽は益々細分化されている。それぞれ小さなコミュニティに収まりきって、その枠をなかなか出ようとしない。たまに見かける中途半端なクロスオーバー感なんてもううんざりだ。なんとかコラボ?フューチャリングなんとか?たいして枠なんか出ていないじゃないか。はみ出したってせいぜい親指程度。そう、そうじゃなくて、もっともっと大きななにか。根こそぎ動かしてしまうような音楽。そういうのがどっかにあると信じて信じたくてなにもかも聴いてやりたくて今ここにいる気がしている。詭弁だろうか。


くるりの岸田君が書いた日記を思い出した。(くるり on WEB)そうだ、もっともっと凄まじいパワーを持った音楽がかつてはあったのだ。そんな一瞬一瞬を僕らは繋ぎ止めたくて、時間に抗ってレコードやCDを生み出し、それは単なる商品と化していった。全ては悪いことではなくて、甘美なる記憶の成せる技。でも、今やそれもボロボロ。だから、誰が好きで誰が嫌いで、あの人が好きだからとか嫌いだからとか、そういう議論の前にそんなのはどーーーっでも良くて、その音そのものにどれだけ惹かれるかでいいんじゃないのかなって。そう思った。結果的にそれが嫌いなら仕方がないけど、もうかっこつける為に聴くのは辞めたらいい。曽我部恵一の「blue」を聴いて泣きそうになった記憶は、自分の中でウソではないはず。


まぁ、そんなことを考えていたりした。さて、音楽はなんのために鳴り響くのだろうか。